何かそういうテーマから見たYMOの話をTVでチョット前にあったようななかったような・・・・。今晩探してみようかな・・・です。
広告と言うと嘘広告を出したってのは後にも先にもYMOぐらいじゃないですか?
だいぶ昔のスタジオボイスで特集してましたよ。バックナンバー入手できるかな?
あと銀星倶楽部でもあったかな?
STUDIO VOICE 1992 .12YMO 環境以後-すべてはここから始まったhttp://www.art-blue.jp/s-voice/1992/SV1992.htmhttp://www.art-blue.jp/s-voice/1992/199212.htm>サントリー広告戦略以後>TOKYO ファッション以後>セゾン・アート展開以後
IDEA NO. 289 : THE STUDIO TOKYO JAPANhttp://www.idea-mag.com/cgi-bin/book/catalog.cgi?language=jp&item=289YMO には特化してませんが彼らのアートワークを手がけた一人、奥村靫正の特集をしていました。
あとは以下のWebマガジンを購読してみるのもどうでしょう。http://www.yellowmagicorchestra.com/
アルファの広告戦略についてもなにかどこかで読んだことのあるような。。。
>http://www.yellowmagicorchestra.com/ですが、NO.7 NO.8 にはアルファの広告担当の皆さんの座談会が「アルファ風雲録」というタイトルで収録されています。2005年8月31日迄の期間限定コンテンツです。
FUJIカセット(のちのAXIA)の広告で増殖とかタイアップしていましたね。キャンペーンでカセットブック(ヴィジュアル本のまんなかがくり抜かれてテープが入ってる)当たったんですけど、意地悪な先輩に取られた!!悔しいおもひで
まず、アルファの社長、村井邦彦の作る特異な社風があり、彼が細野氏にゴーサインを出したYMOという企画があり、YANASEの資本参加とかもあり潤沢で破格な制作費と(スタジオAと)広告費があったことが大きかったと。活動当初からライブ映像を残しPVをプロモーションに使っていたこと。販促品にもコストをかけられたこと。海外ツアーでは現地プレスを必ずライブに招待し、社会面に記事を書かせ、英語パンフレットを工作舎の松岡正剛に作らせ、日本からはアルファのお金でライターさんを随行させたこと。雑誌の性格に合わせて雑誌毎に異なる広告をうったり、また、当時の広告ブームのおり、糸井重里ら有能なクリエータやサントリーの広告を手がけたスタッフとも組めたということ。などが語られています。とにかく、当時のアルファでなければできなかったことは多々あったようです。メンバーから広告表現に注文がついたことは、一度しかなかった、とも話しています。
それらの要素と、当初の細野さんのファイアークラッカー全世界で400万枚(でしたっけ?)という構想とA&Mとの契約もかみ合い、瞬く間に日本のポップスターへ、世界のYMOへと。
当時、小学生のおれとかは、彼らの音楽、演奏する姿、言動そして広告表現等もひっくるめて「YMO」のやることは他とは違う、すごいと感じていたのだなあと思います。
OMOYDE より、こちらのWeb Magazineを書籍化して欲しい・・・
「浮気なぼくら」以降は初期投資を回収するためのプロジェクトだったなんてことも言われてましたね。
ちなみに「再生」もビジネスとしてはあまり儲からなかったとか。なんかあの3人が集まってYMOという名前が付くと一大プロジェクトになるんですよね〜
後期サウンドも評価されてほしいと個人的には思っていますが。
「別冊宝島885 音楽誌が書かないJポップ批評30 YMO&アーリー80’s大全」http://www.takarajimasha.co.jp/tkj/detail/index.phtml?book_id=8887
この本にも当時のプロモ戦略について書いてあったと思います。
>OMOYDE より、こちらのWeb Magazineを書籍化して欲しい
激しく同意。
でも計画されていると思いますよ。
ある程度部数読めますからね。
YMOは、どちらかというと海外でヒットし、それが逆輸入というカタチで日本で火がついた感じですね。そこが、すでに細野さんをはじめとする関係者のもくろみだったと思います。(まあ、細野さんはここまで日本でヒットするとは考えてなかったようですが)
ヴィジュアル的・音的な戦略としては、「欧米人から見た東洋人の(間違った)イメージ」を誇張することから始まったようですね。「ファイアークラッカー」などはまさしくそのもので、ハワイ在住のマーティン・デニーが見た「東洋のイメージ」なので、不思議なオリエンタリズムがありますね。こういった”東洋イメージ”に欧米人が反応、ヒットしたのがYMOの特異なところだと思います。もちろん、1stのオリエンタル電線娘や「Solid〜」のジャケットでの人民服(ホントは昔のスキーウエアのイメージだそうですが)で麻雀とかのヴィジュアルイメージも然りです。
これも最初から「これで売ろう!」としたというよりは、そうしたら結果として売れた。というのがホントらしいですが・・・。
あー 皆様情報ありがとうございます。とっても助かります。コミニティのチカラって凄いわ!感激です!
でもYMOの存在全てがアートだし、広告のようなものだからどうにもまとまらなくて苦戦してます。。。
奥村靫正さんを訪ねてみるってのは邪道でしょうか。(^^2001年に出版された『アイデアNo.289』に氏の特集が掲載されたということもありますし。表紙はアレでしたし。。。
確かにあの座談会は、現場を今から振り返ってみれば、という話なので、小学生だった当事者にとってはあずかり知らぬ事情ばかりという感じですねえ。
ああ、学研「サウンドール」ってのもでかかったなあ。オーディオ、音楽雑誌だけど、毎月YMOが表紙っていう。ほぼ「月刊YMO」と言ってもよい雑誌だった。http://www.c-able.ne.jp/~gd4jhdmg/ymo/ymo4.htmlhttp://www.ne.jp/asahi/100yen/rumba/book1/book80ymo.htm
誰か知ってたらお願いします。昔テクノ系雑誌でピコというのがありましたが、一体何号まで出版されたのでしょうか?
YMO再生の年あたりだったと思います。現在手元にあるのは、創刊号と2号までなので。
あれは2号までしか出なかったと思いますよ。
はい。2号までしか出ていません。ちなみに2号の表4、CASIO VA-10の広告案、キャッチコピーは私が出しました。(笑)「ボコーダーでTOKIO!!」
やはりそうゆうことか(意味不明)
そうだったんですね。今でも毎月探しています。
流石にもう出ませんね。
「ピコ」ならばコミュニティがありますよ。http://mixi.jp/view_community.pl?id=11894
コメント
何かそういうテーマから見たYMOの話をTVでチョット前に
あったようななかったような・・・・。
今晩探してみようかな・・・です。
広告と言うと嘘広告を出したってのは後にも先にもYMOぐらいじゃないですか?
だいぶ昔のスタジオボイスで特集してましたよ。
バックナンバー入手できるかな?
あと銀星倶楽部でもあったかな?
STUDIO VOICE 1992 .12
YMO 環境以後-すべてはここから始まった
http://www.art-blue.jp/s-voice/1992/SV1992.htm
http://www.art-blue.jp/s-voice/1992/199212.htm
>サントリー広告戦略以後
>TOKYO ファッション以後
>セゾン・アート展開以後
IDEA NO. 289 : THE STUDIO TOKYO JAPAN
http://www.idea-mag.com/cgi-bin/book/catalog.cgi?language=jp&item=289
YMO には特化してませんが彼らのアートワークを手がけた一人、奥村靫正の特集をしていました。
あとは以下のWebマガジンを購読してみるのもどうでしょう。
http://www.yellowmagicorchestra.com/
アルファの広告戦略についてもなにかどこかで読んだことのあるような。。。
>http://www.yellowmagicorchestra.com/
ですが、NO.7 NO.8 にはアルファの広告担当の皆さんの座談会が「アルファ風雲録」というタイトルで収録されています。
2005年8月31日迄の期間限定コンテンツです。
FUJIカセット(のちのAXIA)の広告で増殖とかタイアップしていましたね。キャンペーンでカセットブック(ヴィジュアル本のまんなかがくり抜かれてテープが入ってる)当たったんですけど、意地悪な先輩に取られた!!悔しいおもひで
まず、アルファの社長、村井邦彦の作る特異な社風があり、彼が細野氏にゴーサインを出したYMOという企画があり、YANASEの資本参加とかもあり潤沢で破格な制作費と(スタジオAと)広告費があったことが大きかったと。
活動当初からライブ映像を残しPVをプロモーションに使っていたこと。販促品にもコストをかけられたこと。海外ツアーでは現地プレスを必ずライブに招待し、社会面に記事を書かせ、英語パンフレットを工作舎の松岡正剛に作らせ、日本からはアルファのお金でライターさんを随行させたこと。雑誌の性格に合わせて雑誌毎に異なる広告をうったり、また、当時の広告ブームのおり、糸井重里ら有能なクリエータやサントリーの広告を手がけたスタッフとも組めたということ。などが語られています。
とにかく、当時のアルファでなければできなかったことは多々あったようです。
メンバーから広告表現に注文がついたことは、一度しかなかった、とも話しています。
それらの要素と、当初の細野さんのファイアークラッカー全世界で400万枚(でしたっけ?)という構想とA&Mとの契約もかみ合い、瞬く間に日本のポップスターへ、世界のYMOへと。
当時、小学生のおれとかは、彼らの音楽、演奏する姿、言動そして広告表現等もひっくるめて「YMO」のやることは他とは違う、すごいと感じていたのだなあと思います。
OMOYDE より、こちらのWeb Magazineを書籍化して欲しい・・・
「浮気なぼくら」以降は初期投資を回収するためのプロジェクトだったなんてことも言われてましたね。
ちなみに「再生」もビジネスとしてはあまり儲からなかったとか。
なんかあの3人が集まってYMOという名前が付くと一大プロジェクトになるんですよね〜
後期サウンドも評価されてほしいと個人的には思っていますが。
「別冊宝島885 音楽誌が書かないJポップ批評30 YMO&アーリー80’s大全」
http://www.takarajimasha.co.jp/tkj/detail/index.phtml?book_id=8887
この本にも当時のプロモ戦略について書いてあったと思います。
>OMOYDE より、こちらのWeb Magazineを書籍化して欲しい
激しく同意。
でも計画されていると思いますよ。
ある程度部数読めますからね。
YMOは、どちらかというと海外でヒットし、それが逆輸入というカタチで日本で火がついた感じですね。
そこが、すでに細野さんをはじめとする関係者のもくろみだったと思います。(まあ、細野さんはここまで日本でヒットするとは考えてなかったようですが)
ヴィジュアル的・音的な戦略としては、
「欧米人から見た東洋人の(間違った)イメージ」
を誇張することから始まったようですね。
「ファイアークラッカー」などはまさしくそのもので、ハワイ在住のマーティン・デニーが見た「東洋のイメージ」なので、不思議なオリエンタリズムがありますね。
こういった”東洋イメージ”に欧米人が反応、ヒットしたのがYMOの特異なところだと思います。
もちろん、1stのオリエンタル電線娘や「Solid〜」のジャケットでの人民服(ホントは昔のスキーウエアのイメージだそうですが)で麻雀とかのヴィジュアルイメージも然りです。
これも最初から「これで売ろう!」としたというよりは、そうしたら結果として売れた。というのがホントらしいですが・・・。
あー 皆様情報ありがとうございます。
とっても助かります。コミニティのチカラって凄いわ!
感激です!
でもYMOの存在全てがアートだし、広告のようなものだから
どうにもまとまらなくて苦戦してます。。。
奥村靫正さんを訪ねてみるってのは邪道でしょうか。(^^
2001年に出版された『アイデアNo.289』に
氏の特集が掲載されたということもありますし。
表紙はアレでしたし。。。
確かにあの座談会は、現場を今から振り返ってみれば、という話なので、小学生だった当事者にとってはあずかり知らぬ事情ばかりという感じですねえ。
ああ、学研「サウンドール」ってのもでかかったなあ。
オーディオ、音楽雑誌だけど、毎月YMOが表紙っていう。
ほぼ「月刊YMO」と言ってもよい雑誌だった。
http://www.c-able.ne.jp/~gd4jhdmg/ymo/ymo4.html
http://www.ne.jp/asahi/100yen/rumba/book1/book80ymo.htm
誰か知ってたらお願いします。
昔テクノ系雑誌でピコというのがありましたが、一体何号まで出版されたのでしょうか?
YMO再生の年あたりだったと思います。
現在手元にあるのは、創刊号と2号までなので。
あれは2号までしか出なかったと思いますよ。
はい。2号までしか出ていません。
ちなみに2号の表4、CASIO VA-10の広告案、キャッチコピーは私が出しました。(笑)
「ボコーダーでTOKIO!!」
やはりそうゆうことか(意味不明)
そうだったんですね。
今でも毎月探しています。
流石にもう出ませんね。
「ピコ」ならばコミュニティがありますよ。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=11894