正しいか、間違っているかなんで。。

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コメント

  1. Kay より:

    「正しい」「間違い」という概念は、

    あってなきが如し・・・

    世の中、全ては「相対的」なものだと思う。

    絶対的真実など無いに等しいのではないだろうか?

    Kay

  2. みたこ より:

    逃げた…つまり、諦めた、ってことは、その時点で振り返るのが嫌な過去ができたってことに私は感じます。

    常日頃から『後悔する過去を作りたくない』という意識で一生懸命生きていると、何がポジティブで何がネガティブなのかわからなくもなるけれど。。

    逃げたことで、自分の大きさ(実力・壁を超える能力)というものがわからなくなるのは、恐ろしいことかもしれないなと思います。そこでまた“安心”って概念が疑問として上がってきますけど。

  3. PNG より:

    中東を見ると、正しいとか間違っているとか無意味なのは明らかだ。

  4. フクモト より:

    口に正義を唱え始めた瞬間から、その人は不幸になる。

    無能唱元 (禅僧)

    その正義とやらに縛られて、他の価値観を排除し、思考を停止してしまう過ちを犯す、という意味なのでしょうか。

  5. バッシー より:

    それを聞いて管さんが正義ぶって「未納三兄弟」と言ってから

    下ろされたのもそうなのかなぁ・・と思ってしまいます。

    かっちょ悪かったですね

    シンプルなコメントしかできず申し訳ありません

  6. フクモト より:

    >バッシーさん

    いやいや、非常に的を得た事例だとおもいます。

    ありがとうございます。

    正義ぶる、知ったかぶりをする、断定する、

    ロクなことはありませんね。

    気をつけたいモノです。

  7. ♭雪男 より:

    視点が違えば正義は相反することもある。

    要はアイデンティティの範囲を見定めることだ。

  8. ひろみ市 より:

    はじめまして、こんにちは。

    >正しいか、間違っているかなんて

    >どうだっていいことだ。

    >ただ、逃げない事が重要だ。

    正しいとか、間違っているかとか、絶対的な判断基準なんて存在しない。ただ、精一杯自分の人生を考え、選び取っていくだけだ。他の誰でもなく自分自身で出した結論だからこそ、その結果がどうなろうと納得できるのだから。

    でも「逃げた」という事実からは、一生逃れられない。

    そう思います。

  9. カコ より:

    はじめまして。

    「正しい」とか「間違っている」とかいう言葉をいれると

    そこに過剰に反応してしまうように思うので、

    ちょっと言い換えてみます。

    冒頭の言葉は、

     いましがみついている石が

     「黒い色」か「白い色」かはどうでもいいことで

     ただ「さらに上をめざそうと手を伸ばすこと」が大切なことだ

    ということなのだろうとわたしは解釈します。

    だから

     <今掴んでいる石が白いから、自分はこれ以上昇れないよ>

    とか言い出すとまさにフクモトさんのおっしゃるような「逃避」のエクスキューズになってしまう。

    また他人から

     <あいつの掴んでいる石は黒いから、あいつはこれ以上昇れないね>

    なんていわれると、

    「黒い色」か「白い色」かはどうでもいいことで昇ろうとすることが大切なんだよ!

    なんて言い切りたくなりますね。

    (*おそらくキャサリン・ヘップバーンはそうだったのではないでしょうか)

    然し、他人のことはさておいて

    自分自身で自分の掴む石がどういうものであると思うかは

    とても大切なことだと思うのです。

    何故なら掴む石とはすなわち「逃げずに立ち向かう」ための

    力の拠り所で、まさに「うんしょ」とふんばるための礎です。

     黒だから白だから善だから悪だから好きだから嫌いだから

    とかいって

    理由なんて所詮くだらない理由にすぎないのだけど

    (しかも往々にして後付けの理由だったりするのだけれど)

    「立ち向かう」ための力の拠り所でもある以上、

    それは強固なものであると信じざるを得ない。

    掴んでいる石を「脆い」と思ってしまったら、

    怖くて前には進めない。

     すみません…そうでない人もいるかもしれませんね。

     ただ、少なくとも私はそうです。

    ただ必死にしがみついてしまう以上、

     自分は何にしがみついて立ち向かっているのか を認識し、

    またそれを握り締めている以上掴めないものがあるということを

    知っていたいと思います。

    もちろん、自分が今掴んでいる石が全てではないということも。

    そして本当に高みを目指そうと思うなら

    自分のしがみついているそれを手放すことも覚えなければ

    どこにもいけないですね。

    ロッククライミングのように。

    (ちなみにわたしは「好き」とか「快」の石を掴む傾向が強いようです…)

  10. ♭雪男 より:

    テレビにもよく出る河上和雄さんが「好き嫌いで決めろ」という本を出してて、なんとなく河上さんは好きだったので買うことに決めて読んだです。

    まあ、読まなくても義務感や使命感あたりだけで何かやると辛い。集中力を欠くから事故を起こしたり、ストレスから身体を壊したり死んだりする。

    とはいえ、のっけから「好きだからいい」とか「嫌いだからイヤン」と言ってては向上も発見もなく金も増えなきゃ女もできん。食わず嫌いは自分の損で食べてみたらうまかったということも世の中多い。

    河上さんだって東大からハーバードですから。好きなことだけやってきたはずはない。好きな人としか関わらなかったはずもない。

    ハゲをバーコードヘアで隠してるのを見ても分かる。間違いない。

  11. フクモト より:

    >ひろみさん

    >カコさん

    >・・・。雪男さん

    ありがとうございます。

    カコさんのお話は、ほんとわかりやすいですね。

    行間に、人に対する愛情や、実践を伴う多くのご経験や

    思索の蓄積を感じます。

    いろいろ教えてください。

  12. TO-RU より:

    間違いをくり返すうちに真実が見えてくることがよくあるわ!所詮人間なんて完全体ではないのだから・・・。輪廻を繰りかえし成長していくってことかしら、それにしてもキャサリン・へップバーン、旅情、冬のライオン、素敵だったわ!!!

    とおる

  13. 摩似る より:

    「正しいかまちがっているか」

    そもそも究極の答えなどありえない。

    「正しい行い」とか「作法」とか

    それらは、ふんべつにすぎない。

    場所が変われば、すべて変わる、

    人間以外の目から見るともっと変わる。

    ただの道なら立ち止まって動かずにいられるが、

    「死ぬ迄生きて行く」という事に対時しては

    立ち止まる事が出来ない。

    立ち止まって足を止めても、時間と変化からは立ち止まれない。

    死ぬ迄生きるしか選択の余地はない。

    いろいろ先の事を思い巡らせ考えてみても、

    「それ」はあくまでも、根拠のない「空想」と「想像」にすぎない事。

    今ここに生きる、、それだけの事。

    自覚するかしないか、それらに、もまた関係なく自然はただ動くのみ

  14. 摩似る より:

    「正しい」っていう事があるからそうじゃないものは

    「正しくない」って呼ばれる

    名前をつけたら価値観が生まれる

  15. ♭雪男 より:

     今、自分が巻き込まれているややこしい事態にどう対処したらいいのか迷う時、多くの人は、「ああ!! 面倒なこっちゃ」といって問題を無視して、目の前の現実から逃避しようとします。放っておけば事態は自分の与り知らないうちに解決するだろうという神頼みに近い希望的観測をもって。

     でも。多くの場合、放っておいてうまく解決するトラブルというのはありません。とにかく目の前のトラブルから目を背けるな。自分の行動が正しいか間違っているかは、その時にはわからないものです。正誤の結果が出るのは、たぶん、行動を起こした後でしょう。逆に言えば、行動を起こさなければ、自分の行動の正誤を判断することさえできない。

     ヘップバーンの言葉は、そういう意味なんだろうな、と思います。

  16. ♭雪男 より:

    さかなていうみほたるです

    そですね、行動した後に解る事だってありますね。

    雑誌かなにかでヘップバーンの言葉が紹介されたそもそもの意味は

    細かい言葉の意味ではなく。

    心がそうだと思った時行動する事だという意味でしょうね。

    純粋とか単にとか、自分の今思ったままとか、そういう意味かもしれませんね。

    (勿論したいほうだい、、、ではまったくなくですが)

  17. ♭雪男 より:

    >9カコさん

    ところで私は元ロッククライマーなのですが

    >そして本当に高みを目指そうと思うなら

    >自分のしがみついているそれを手放すことも覚えなければ

    >どこにもいけないですね。

    >ロッククライミングのように。

    これは…まあ、持ち替えたり踏み替えたりしなきゃ移動はできない

    わけですけどね。

    手を使う登山では「3点確保」といって両手両足で4点のうち動かす

    のは1箇所というのが基本です。

    つまりなるべく「離さない」なので手を放すたとえとして

    ロッククライミングを出されると違和感があります。

    例外はありますよ。振り子トラバースとか、オーバーハングとか。

    登山ってのは基本的に着実なもんです。一歩踏み出せば一歩進むとか。

    ペース配分も大切だし。用具や技術に応じた目標設定をするし。

    よく言われるように頂上目前でも危なければ撤退するし。

  18. bluebox より:

    >正しいか、間違っているかなんて

    >どうだっていいことだ。

    要は価値観の相対化ですよね。

    自分が正しいと思った物が自分にとっての正解なのだと思います。

    そして、それはどれが正しい答えという物という事もないと。

    >ただ、逃げない事が重要だ。

    自分は時には逃げる事も大事だと思うのですが…

    時には諦める事もそれはそれで不幸じゃない。

    ティムバートンの映画「エドウッド」は要約されてはいますが

    その後のティムバートンの生き方を知ると、この事がよくわかる

    と思います。

  19. ♭雪男 より:

    本題とは逸れると思いますが、

    結局言葉はおなじ言葉でもひとりひとり重さも意味も違ってきます。

    またそれ以前に、それらはすべて人間に生まれて生きているからゆえの

    「とらわれ」にすぎない「ふんべつ」。

    余談ではあります。

    ちなみにハンドルネームを変更しました

    「さかなてい うみほたる」から「とらまるさま」に変えました。。

    が、これもまた、「ふんべつ」にすぎない。

  20. ♭雪男 より:

    逃げられるうちに逃げる手はある

  21. より:

    「(論理的に)正しいことを言う事が、

     (倫理的に、合理的に)正しいとは限らない。」

    そう信じているんですが、

    なぜ、皆、平気で正論吐けるのだろうと思っています。

    正論を言い放った後の独特の爽快感、

    あれを味わいたいだけに見える。

    だが、そういうのがストレス少ないですよね。

  22. 絶対的に正しい事ってないと思ってます。

    今正しいことは、今正しいと言われているだけのことで

    昔は間違いであったり。

    善悪や正しい、間違いなんてものも流動的なものでしかない。

    なんかうさんくさいもんだと思います。

    それと、、正論を言っている人達皆が、

    「正論を言い放った後の独特の爽快感を味わいたい人」

    ではないかな〜と思います。

    というか、私だってあなただって、言い放った後の独特の爽快感を味わいたい気持ちはあるんじゃないでしょうか?

    結局同じです、きっと。

    そんな風に思いました。

  23. まんぷく より:

    姿勢がいいってことかな?

  24. CoCo 凡揺 より:

    <<「(論理的に)正しいことを言う事が、

     (倫理的に、合理的に)正しいとは限らない。」 >>

    どういう事を指しての事かは解りませんが、

    そもそも人間が論じあう事なんて、人間であるがゆえの価値観からに

    過ぎない事は言う迄もない事です。

    人殺しだって、ライオンにしてみれば、「ありがとう」の世界かも、

    話し合うという行為もまた人間ゆえの習性、本能に影響された欲求に過ぎません。

    でも、それでいいじゃん。

    そういう事をしたいのが人間の習性、本能なのだから、

    だから、こういうネット社会まで空想し想像し創造した。

    「言い放った後の独特の爽快感を味わいたい」というのもあるかと思いますが、真実を知りたいと手探りしている事もあると思います。

    だから、会話もいーんじゃないの?

    正論をちゃんと理解して言っている人とそうじゃない人も

    けっこう解ってしまうもん。

    この人の話なら聞きたいなーという時ってあるもんね。

    こういう雑談はとても有意義だと思う。

    たいそうな寺院で歴史語られたり、呪文となえたりするより

    たまには、いい場合もあるかもと思います。

  25. CoCo 凡揺 より:

    正しいかどうかわからないんで、話し合いのときは最初にとりあえず立場だけは決めます。じゃないと会話にならないと思っています。

  26. CoCo 凡揺 より:

    正しいかどうかという判断はあくまでも「人間」の分別にすぎないのだと

    いう自覚をしてから、判断すれば、

    自分の判断が正しいのだから「正義」であり、それに反するものを

    正義をもって罰する!などという、愚かな結果にはならないだろうという意味です。

    <<正しいかどうかわからない以前に立場だけ決める>>

    という意味は理解出来ません.

    会話にならないという以前に、

    会話を聞けばよいのでは?発言する以前に聞けばいいだけだと思います。

    イラクが正しいか、アメリカが正しいか、考えようとする時、

    とりあえずアメリカの立場という事に決める必要なんて無いでしょ。

    そんな事しなくても、会話を聞いていればいい事で、

    何も解りもしないのに、発言する必要は無いと思います。

    会話とは、聞く事も含まれているのでは?

  27. CoCo 凡揺 より:

    本テーマである↓

    <<正しいか、間違っているかなんて

    どうだっていいことだ。

    ただ、逃げない事が重要だ。

    キャサリン・ヘップバーン(アメリカの女優) >>

    ↑この発言の日本語訳がどれほど正確に表現されているか、

    またこの発言をしたキャサリン・ヘップバーンのその時の背景に何が

    あったかも、問題ですね。

    イラクとアメリカの問題で、もしこの発言をしたら、

    そら「あほ」な事ですからね。

    一応、このあたりで、一言入れさせていただきます。

  28. CoCo 凡揺 より:

    ただ、哲学や仏教で言う「悟り」とか「真理」というものは、

    そういうもんじゃないよ。

    正しいかまちがっているかわからないようなもんじゃない。

    浄土や天国、エンジェルがいる場所があるかどうかという事でもない、

    よい事をすればよい事が返ってくるかどうかなんてものでもない。

    悪い事をすれば、その縁により悪い事にとりつかれる(^.^;)

    かどうかも違う。経典をなん百回何万回読めばいいとかなんとかでもない。

    自己満足とか爽快感でもない。

    善悪なんて事も言わない。

    そこに、あるものを、「あるんだ!」と気が付くだけの事。

    ただそれだけの事。

    そして、それが善いとか悪いとかという事でも無い。

    優れているかどうかの区別も無意味。

    気が付いても気が付かなくても、大した変わりは無い。

    気が付いたからといって、どうしようも無い。

    ただ、見えているものを見えていると認識出来ただけ

    もともとはなっから、目の前に存在している自然のままを

    その自然が「あるんだ」と気付いただけ、その「有りよう」に。

    それはソクラテスも釈迦もまったく同じ事に気が付いたというだけの事で、自然の有り様に気が付いたというだけ。

    ソクラテスも釈迦もただそれだけが基本で、それだけの事。

    それから後を、だからと言って「どうしようもない」から、

    もう、ただ生きようとするか、

    たとえばどうしようもない事を苦しみと感じる者や、

    どうしようもない真実にも気が付かず、自らの妄想に苦しむ者を救おう

    というのが仏教に限らず「宗教」

    どれが正しいかどれが間違っているか、

    すくなくても「哲学」や「仏教」に関してとか、真理や悟りに関しては

    そこを通らずに語ると、単なる空想や妄想、あるいは

    理論的な説明を暗記する学問でしか無くなる。

    「AのコーラはBのコーラより甘く原料はアフリカのどこそこのコーラの木である」とかいうのを暗記しても、実は何も味など解ってなどいないし、

    感じていない、まったく実感などないし、「知らない」のである。

    飲んだ事等無いし、見た事も無いのである。

    味などまったく理解していないのである。

    原産地を知らなくても、Bのコーラより甘いか辛いかという知識など無くても、「そのコーラ」を飲んだら、それはもう「味わった」のである。

    味が解ったのだ。「ヒマラヤの山を見る」というのも同じ事だ。

    その山の木の種類が何でなるか、地質がどうであるかの知識としての学問をいくら積んでも、「見た」のでは無い。歩いた訳ではない。

    釈迦やソクラテスのいう悟りとか真理というのは、

    「見た」「味わった」というようなもので、「気が付いた」という事。

    学問だけでは決して、そこには行けない。修行したからといって約束されない、かといって、何もしなくても、たまたま気が付く者もいる。

    正しいとか正しく無いとか関係ない。

    「富士山を見た」からと言って、

    その人物が優れているとか正しいとか間違っているとか、

    美しい心の人間だと言う判断とは

    全く関係ないように。

    このあたりをなんでもかんでもぐちゃぐちゃに考えると

    言いたい放題のなんでもありだけの事になってしまう。

    それはちょっと違うと思う。

    今この板の流れからすると、

    正しいとか間違っているとかは「無い」という

    だけの話しに終わりそうだが、

    そのあたり単純に終わると、

    「真理」まであやふやになる気がする。

    そう結論つければ楽ではあると思うが、

    そうではないから、ソクラテスや釈迦の教えは、難解。

    単純なのに難解。

    難解そうに偉そうに学問している者には難解。

    単純な者には単純。

    かと言って中間取って解決しましょうというのもおおぼけ。

    ソクラテスが気が付いた「それ」は

    気が付いても気が付かなくても、どおって事はなく、

    なんて事のない事だけど、

    「ああそうだったんだ」というだけの事。

    少なくても、想像や空想、妄想との違いがそこにある。

    ゾウを見ない者が聞いたり読んだりして

    想像したゾウは空想、妄想でしかない。

    子供でも、本物をただ見ただけで、「これがぞうなんだー」と。

    ただそれだけの事。だからと言ってどおって事は何も無い。

  29. 大槍 より:

    本来は言葉であらわせず、ただ自分で知り、気づくしかないものなのに、それを言葉にした瞬間、ニセモノになってしまう。というようなことでしょうか。

    言葉で何かを語ろうとすると、その一面しか捉えることはできません。ましてや、その言葉で真理を議論するなど、真理から遠ざかるようなものだと。

    でも、そういうことは、まさに、隠れさんの言うように、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない。なぜなら、それぞれに見ている世界、価値観(パラダイム)が違い、違うプロセスでここに至っているから。

    「真理や答え、正しさ」などというものはあまり重要ではなく、そこに至る考え方、価値観、プロセス(これらをひっくるめてパラダイムと呼ぶとラクなので、ご理解ください)の中に最重要なものがある気がします。

    他人を理解しようとしたり、先人の言葉を吟味するのはその道しるべとしてあると役に立つものなのですが、それそのものに真理があると思ってしまうと、間違うのかな〜と。

    どうもまとまりきりません。すみません。

  30. CoCo 凡揺 より:

    大槍 さん

    横道にそれますが、少し触れます。

    「正しいか間違っているか」という事と「真理」を一緒にするのは

    少し違うと思いますよ。

    「正しいか間違っているか」は、たかが「人間のふんべつ」に過ぎない事ですし、たかが人間の判断事であります。

    しかし「真理」とは、その「人間」など、この宇宙から消え去ってしまっても、また、生まれて来なくても、人間など存在していなくても。

    「あるもの」です。

    それが「真理」です。

    それが「自然の有り様」です

    真理と、「正しい事」とはまったく別物です。

    <<言葉で何かを語ろうとすると、その一面しか捉えることはできません。ましてや、その言葉で真理を議論するなど、真理から遠ざかるようなものだと。>>

    キュビズムはそういう発想ですよね、その通りだと思います。

    が、しかし、真理とは「有り様」なのであって、「その統べて」という

    ような解剖学的な事ではありません、もしそのような解剖学的な事であれば、ソクラテスであろうが、釈迦であろうが、今の我々の知識の方がよっぽど上ですし、彼等にだって、「統べて」など語れようはずはありません。

    また、釈迦はそういう事を「語れようはずがない事」と言っていますし、

    ソクラテスは「自分自身はそういう事を知らないという事を知っている、だから、知っていると勘違いしている者よりは偉いのだ」と言ってます。

    (いや、偉いのだとは言っていないかも)

    仏教も哲学も実は「そこ」こそが、どでかいポイントだと僕は思っています。そこを理解してしまったら、もう後は大した事ではないと。

    中道とか、判断中止とかという釈迦の言葉は、「それ」を指す言葉で、

    実はとても重要なポイントですが、そこをすっと、飛ばしてしまうと、

    慈善団体になったり、ボランテイア集団になったりこそ仏教だという事になってしまい、そこにまた空想、妄想が生まれてしまう。

    空想、妄想から離れる、とらわれない、それが釈迦の、そしてソクラテスの極意中の極意。真理を観る手前。

    たぶん大槍 さんは、今その位置にいらっしゃるのだと思います。

    なぜだか、そのあたりがひっかかるのは、実はもう大槍 さんは

    見えかけているのに、何か「知識」が邪魔してしまって見えない。

    しかし実ははなっから全部観えてしまっているのに、知識(とらわれ)が

    違う「かたち」を空想している。もうそこなのに、でも、すっごくでっかい

    「別のモノ」が判断を鈍らせている。

    「善」とか「利他」という言葉にとらわれて、

    真実を見失ってしまうのも、宗教の「落とし穴」なのでしょう。

    たったそれだけなのに、たったそれだけがばかにでかい壁になる事が

    多いみたいです。

    そういう意味で「このトピック」は実は凄い。

    凄いけど、単純、簡単、当然。

    「自然の有り様(真理)」は凄いけど単純、簡単、当然。

    当然、簡単、単純に「ある」から凄い。

    その凄い「自然の有り様」の中に人は、「いる」

    存在している大槍さんは、存在している。

    その全体の有り様が「真理」

    あくまでも「有り様」です。

    解剖学的な物理ではなく、

    しかし、「ああっ!ほんとだ!」と解ってしまう。

    「それ」が真理です。

    *ややこしかったら、この場合は今回のこのトピックに関しては、

    まったく頭から除いてしまいましょう

    「真理」という言葉を。

  31. CoCo 凡揺 より:

    PS:

    たとえば、この宇宙に「人間」など存在していなくても、

    或いははなっから存在しなかったとしても、今後人間という種が絶滅しても、または地球ごと、いやこの銀河ごと、消滅(爆発とかの物理的変化でもいいです)したとしても、

    でも、そんな事に関わり無く、この宇宙は「存在」しているでしょ?

    っていうか、そうやって、

    消えたり生まれたりする事こそが「自然」そのもの って事でしょ。

    自然はそうやって、いつも変化していて、

    生まれては消える、消えては生まれる、「無常」。

    ありとあらゆるものは 

    その「無常」と「変化」という「かたち(有り様)」をしていますよね。

    それが自然。

    ↑これらを学問的に物理学的に理解するのには、最先端の宇宙物理学をもってしても、解剖学的な宇宙物理の答えはまだ人間にはわかりませんよね。

    なぜ変化するのか、変化する前は何か?、その前は?

    元素はいったい何で作られているのか、素粒子はいったいどこから来たのか、この地球の成分や、動植物の種すら完全に把握するのはおそらく不可能でしょう。

    けど、それらの「知識」「学問」を知らなくても、

    前述の

    変化、無常しているという自然の「かたち(有り様)(リサイクル?)」という事(自然の有り様)は解りますよね、たぶん今の 大槍さんには。

  32. 大槍 より:

    隠れさんの言うことには全く違和感が無いので、その言わんとしている事に対して特に何も言うことはないのです。

    それはそれとして、「色即是空」「因果応報」みたいな事をどれだけ噛み砕いても、表面的には分かっても本当に”わかる”事は難しく、なぜ「答え」があるのにもかかわらず「わからない」のか、という疑問が僕の中にあったのです。

    それが29の発言になっていると思ってください〜。

    実は、あの発言は時間の無いときに一気に書いたもので、(この発言もそうなのですが)あまり推敲していません。ご容赦を。

    隠れさんはいつもすごく丁寧にお話をされるのでそれは素晴らしいと思うのですが、僕は、人というのは正論だからといって答えを受け入れるものでは無いと思っているのです。むしろ、それが曖昧な疑問や、間違った示唆であっても、「その人自身の経験やプロセス」を展開させるようなものであることが大事なのかと思っています。

    まあでも、人それぞれですね。いろんなアプローチの仕方があるという事でしょう:-)

    いつか腰をすえて、ゆっくり考えようと思います。

    ※「善悪」については話が長くなるので、別の機会にしたいです。時間が無いので、これで。

  33. CoCo 凡揺 より:

    大槍 さん かくれキャラですこんにちは、

    <<「色即是空」「因果応報」みたいな事をどれだけ噛み砕いても、表面的には分かっても本当に”わかる”事は難しく、なぜ「答え」があるのにもかかわらず「わからない」のか、という疑問が僕の中にあったのです。

    >>

    というか、仏教はそう言ってますね。

    諸法無我、諸行無常を知識で理解出来説明出来る人はすごく多くいるはずなのに、「答え」である「諸法実相」が理解出来ない。

    山のあなたの空遠く、仏教住むと、たいそうな先人達が言ったであろうと

    空想する。(^.^;)

    >>なぜ「答え」があるのにもかかわらず「わからない」のか、という疑問が僕の中にあった>>

    それって、何か解りかけているのでは?

  34. 愛することは正しい

    人を幸せにすることは正しい

    正しいことは自分を幸せにする(結果的に)

    正しい人生を送るのは自分と周り、みんなの幸せのためにとても重要。

    逃げないことも重要。

    悪いことからは逃げることも重要と思います。

  35. 正しさという概念は、自分好みの世界観を広めたいと望む人が取り入れる戦略の一つに過ぎないと考えています。

    このテーマのみに的を絞ったブログを運営しているので、興味のある方は覗いてみてください。

    http://iron-soldier.seesaa.net/

    参考までに記事の一部を引用してみますね。

    AさんがBさんに向かって「人を殺してはいけない」と言ったとします。

    AさんがBさんにこんなことを言った理由は何でしょう?

    普通に考えるなら、AさんはBさんに人を殺してほしくなかったのです。

    しかしここで1つ疑問が起こります。

    Aさんはなぜ素直に「あなたに人を殺してほしくない」とは言わなかったのでしょうか?

    Aさんの思いは「Bさんが人を殺したりするのは嫌だ」なのだから、正直にそう言えばAさんの意図は伝わるのではないでしょうか?

    なのにどうして「人を殺してはいけない」という表現にわざわざ変える必要があるのでしょう?

    それではAさんとBさんそれぞれの都合を考えてみたいと思います。

    ここでAさんがBさんに向かって「あなたに人を殺してほしくはない」と素直に打ち明けたとしましょう。

    Aさんは「Bさんが人を殺したりするのは嫌だ」という「Aさんの都合」をBさんに要求しています。

    しかし、Bさんの行動の基準はあくまでも「Bさんの都合」なので、「Aさんの都合」をどこまで配慮するかは「Bさんの都合」によって決まります。

    これでは「Bさんに人を殺してほしくない」という自分の要求が通るかどうか、Aさんには確証がもてません。

    Bさんに自分の都合どおりに行動してほしいと思っているAさんは、今の状況のままでは我慢できません。

    AさんはBさんを説得するに当たって、「Aさんの都合」とは違う何かの力を借りたいと考えました。

    そこでAさんは価値判断というレフリーを雇うことにします。

    このレフリーは個人個人の行動に対して「OK」とか「ダメ」などというジャッジを下してくれる便利な存在です。

    このレフリーを味方につけてAさんに有利になるようジャッジを下してくれれば、「Aさんの都合」でしかなかった要求がもっと大きな権威を持つようになるのです。

    そのレフリーとは、法律であったり世間であったり神であったり「内なる道徳」であったりさまざまです。

    つまり「人を殺してはいけない」という言い方をすることで、「Bさんに人を殺してほしくない」というAさんの個人的な要求でしかなかったものに、「レフリーがどこかでそう決めているんだから!」という権威が付け加えられるのです。

    しかしBさんは納得がいきません。

    もともとBさんは「Bさんの都合」に従って好き勝手に行動していたはずなのに、Aさんがわけの分からないレフリーを持ち出してきて、「Bさんの都合」とは別の基準で「OK」とか「ダメ」とか仕切りだすようになったのです。

    しかもそのレフリーは最初からAさんに都合がよくなるジャッジしか下していないように見えます。

    「その正体不明のレフリーはどこから雇ってきたんだ?」

    BさんはAさんに不満をぶつけます。

    しかしAさんも必死です。

    レフリーは公平で由緒あるものだと思ってくれないと、せっかく作り上げた権威がふいになってしまいますから。

    「このレフリーは私が勝手に雇ったわけじゃなくて、最初からこの世界にいて私たちの行動を裁く権限を持っていたんだよ。」

    後はもう力業です。

    「レフリーを疑うなんてそれ自体ダメなことなんだから、グダグダ言ってないで受け入れなさい!」

    是か非か

    善か悪か

    正しいか間違ってるか

    するべきかするべきでないか

    しなければならないかしてはならないか

    これらの価値判断は全て人の勝手な都合によって雇われたレフリーです。

    そして、このレフリーの持つ権威を高めるためには、「人の勝手な都合によって」という部分を上手くごまかさないといけません。

    そこのところを上手くごまかして、雇ったレフリーの権威を裏付けるもの、それが「真理」という概念です。

    「真理」というのはつまり、「この世の中をジャッジするレフリーは人の都合とは関係なく最初から存在していた」という苦し紛れの考え方のことです。

    この「真理」という概念をインプットされてしまった人は、「どこかに人に雇われていない真のレフリーがいて、そのレフリーの命令にだけは従わなければならない」という信仰を抱きます。

    その意味では「これが真理だ」と言っている人も「何が正しいのか分からない」と言っている人も「真理なんてどこにもないじゃないか」と言ってる人も、合わせてこの「真理教」の信者です。

    しかし私の予想によれば、レフリーとは「人が雇った瞬間にしか現れないもの」です。

    だから人に雇われていない真のレフリーなんていくら探そうとしても見つかるはずがありませんし、たとえ「見つけた!」と思ったとしても「そいつは真のレフリーじゃない、すでに買収されている!」と誰かに文句を付けられることでしょう。

    私にとっては、

    「人に雇われていない真のレフリーを探そうとする発想自体が人の手によって捏造されたものである」

    という仮説こそが「だいたいそうだろう」と思える説得力を有していました。

  36. ♭雪男 より:

    愛のムチというのも、大きなお世話ということもあるけどね。

    Aさんの正義はBさんの悪徳だったりするし。

    逃げないおかげで犬死したり殺人することもあるし。

    いいか悪いか分からなかったり、人や時代で変化したりするし。

  37. 風嵐 より:

    正しいとか間違ってるはだれかの主観がないと存在しません。

    だから、私の人生において

        私が正しいと思ったものは正しい、

        私が間違ってると思ったものは間違ってる。

    たとえ、そのことで損害が生まれようとも・・・・・・。

  38. ヤマト より:

    >正しいか、間違っているかなんて

    >どうだっていいことだ。

    >ただ、逃げない事が重要だ。

    医者や裁判官には言ってほしくない台詞だな。

    正誤のシビアな見極めが必要な場合もあるわけで、人はそうやってその場その場の取り引きを行なっているのが実情でしょう。

    起床ひとつ取っても、起きようか、いやまだ寝ていよう、とか考えたり。

    過去の人生で何一つ選択しなかった人がいるなら、名乗り出て下さいませ。

  39. 風嵐 より:

    ふと思ったんですが、

    >過去の人生で何一つ選択しなかった人がいるなら、名乗り出て下さいませ。

    という状況はあるのかと考えまして、

    1、生きていない人

    2、自我に目覚めてない人

    という結論に至りました。

  40. ひろ より:

     私は、医者や裁判官には、きちんとわかっていてもらいたい言葉だと思います。

     目の前にあることから、逃げ出して、無関心になってしまうことがないようにということがとても大切であると言っていると思うからです。

     正誤のシビアな見極めが必要な場合、逃げ出してしまう人もいると思います。医者・裁判官なら、逃げ出して、やっつけ仕事をしてしまうとか・・・・。無関心でも、答えって出せるんです。選択もできます。 

     そのものと向き合って判断をするのと、無関心で口からでまかせでいうのは、万が一同じ判断をしていたとしても、まったく違うものだと思うのですが・・・。

  41. ♭雪男 より:

    シビアだから選択できないということもある。

    それは逃げじゃない。

    選択してしまうことのほうが逃げ。

    というとそれが言い訳に使われることも多い。

    ただの「つもり」でなく

    本人も本気でしかも客観的なのかどうか

    そんな答えがあるのかどうか。

    ないこともある。

  42. なかじょ より:

    自分が正しいと判断してしまえば、その人の中では正しくて。

    後で考えを改めさせられれば、正しいと思っていたことが正しくなくなる。

    マイノリティ(少数派)を嫌がる人もいれば、多数派を信じるひともいれば、自分が正しいと思う人もいる。

    全てを自分基準に考えてしまえばこれほど簡単な事は無いかなぁなんて。

    悪や正義、正しさや間違いって言うのはそういう事でもいいんじゃあないかなぁ、って私は思っています(→ิܫ←ิ)