エドワード・ヤン関連情報

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コメント

  1. ジュン より:

    とても、いい文章ですね。

    エドワード・ヤンの作品は、美しい数式や

    プログラムをみている感じがします。

    昔、四方田犬彦さんがエドーワード・ヤンと侯孝賢を

    を押井守と宮崎駿にたとえて、語っていたのを読んで、

    妙にしっくりきたのを思い出しました。

    ヤン監督や押井監督は《都市の作家》

    侯監督や宮崎監督は《田園の作家》

    といったくくりかたをしていました。

    さらに僕なりに付け加えると

    ヤン監督や押井監督は《情報の作家》と言える気がします。

  2. ピロシ より:

    敢えて反論ってわけでもないのですが、ちょっと気になってしまったので、文脈を読む『センス』が足りない者だと思ってご容赦ください。

    僕は『ヤンヤン』が駄目だった人間の一人です。

    WEBデザイナーのエゴで過剰な表現が伝達すべき情報を邪魔するというのは、デザイナー自身が伝達内容について良く理解しないままで、単なるテクニックの披露に終始して、その結果内容と表現手段が乖離してしまうことだと思います。しかし語りたい内容が非常に高度で繊細な場合、高度な表現手段を用いねば正確に伝わらないのは当然です。エドワードヤンの『クーリンチェ』等が素晴らしいのは高度な伝達内容と高度な表現手段の高度な融合にある訳で、技術偏重では断じて無く『デザイナーのエゴ』的な文脈は彼には当てはまらないと思います。彼自身がインタビューで表現手段より伝達内容が重要だとも取れる発言をしてるので仕方がないですが、彼の『作家性を脱却する』という『エゴ』によって、残念な思いをしたファンも多く存在したという事実を忘れて欲しくはないものです。

    ただし作家の表現は常に一定ではなく、その時々の心境と共に変化していくものなので、以前の彼に戻って欲しいとは思いません。彼には、彼にとってその時最もビビットな問題について考え、表現していって欲しいです。それをどう評価するかは僕たち観る側の問題ですからね。

    僕は本質的に表現とその伝達内容は不可分であり、どちらの方がより重要かなどという議論はナンセンスだと思っています。エドワードヤンは『ヤンヤン』の物語を伝達する上で、もっとも有効だと思った表現手段を選択したにすぎず、それが作家性の喪失(過剰な表現を使ってないってことですよね?)という表現であったというだけなんじゃないでしょうか?僕は以前の彼の作品に登場した、世の理不尽にギリギリのところで耐えているような人物にとても共感していたので、単に『ヤンヤン』には乗れなかっただけです。

    自説を展開される為の格好の材料としてエドワードヤンを引き合いに出されたのでしょうが、自説の正当性はともかく、彼の作家性の変化は、伝達内容とその表現手段の乖離を問題にする際には適当なものとは思われません。何故なら彼の作品には表現手段の過剰が伝達内容を邪魔するような低レベルの作品は存在しないからです。

    彼の作品をこうした文脈で引用することは、彼の『ヤンヤン』以前の作品が、まるで作家のエゴにによる表現過剰な作品であるかのように誤解する、僕のような『センス』の無い人間がいることに多少は注意を向けるべきだと思います。