フランス・パリ万国博覧会

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コメント

  1. 匿名 より:

    長文で読みにくくなりますが、ご了承下さい。

    また、史実と異なる点がございましたらご指摘頂けると幸いです。

    ?1855年パリ万国博覧会

    フランスはパリにおいて、1798年に世界初の「博覧会」を開催した。以降1855年までに10回もの内国博覧会が開催される。

    当時の内務大臣フランソワ・ド・ヌシャトーが周辺諸国を招いた万国博覧会を提唱するが、1850年イギリスに第1回ロンドン万国博覧会の開催を譲る。

    1855年に万国博覧会が開催されることが決定されたのは1853年、ナポレオン三世の勅令により、それまでの産業博覧会を万国博覧会とし、加えて美術博覧会も行われることが決議された。パリ万国博覧会には、ナポレオン三世の従弟にあたるプリンス・ナポレオンがパリ万博帝国委員会委員長に任命された。

    開催への準備不足と会場予定地の予想外の狭さにより、会場を産業館として美術展会場、工業製品展会場を別館として建てる救済策をとった。

    1855年5月1日、パリ万国博覧会が開幕。開幕後も建設は続けられ、諸会場はバラバラにオープンして来場した民衆を落胆させる結果となってしまった。それでも、夏ごろには全ての会場が完成し、ようやく来場者も増え始めた。特に日曜日は入場料が平日の5分の1の20サンチーム(約200円)であったことから、日曜日は会場周辺が人でごった返すほどの賑わいだった。

    展示においては、蒸気機関車が出品され、人気を集めた。セーヌ川沿いに作られた「機械館」に飾られた機械はすべて動いている状態で展示された。

    「美術館」では、ここにはイギリス、ベルギー、オランダ、プロイセン、イタリアを始めとする諸外国作品を含めた5千点もの作品が展示されたが、そのほとんどはやはりフランスのものがほとんどだった。当時、画壇を席巻していたドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』やウジェーヌ・ドラクロワの『ダンテの小船』などの傑作が展示された。フランスでは、当時芸術家の登竜門であった“サロン”と呼ばれる大掛かりな官展を毎年必ず行っていたが、この年は万博のために中止し、そのサロンの役割を担ったのが万博の美術部門であった。この万博へ多くの作品を委ねながらも意欲作(例『画家のアトリエ』)が出品されなかった写実主義のギュスターブ・クールベは、万博の美術館の近くに展示場を建て、自身の作品40点あまりを展示したのは有名な話である。

     こうしてなんとか盛況のうちに10月31日幕を閉じたフランス万国博覧会では、最後に出品作品に対する褒賞授与が行われた。当初は最優秀賞に金メダル、1等に銀メダル、2等に銅メダルを授与するとされていたが、最優秀賞に推薦される作品が予想以上に多く金メダルの需要が間に合わなかったため、苦肉の策として大金メダル(グラン・プリ)と小金メダル(優等メダル)と分割することで事態を打開した。

    出展者数は1万1千人、入場者数はロンドン万博の600万人には及ばず516万人であった。

    ?1867年第2回パリ万国博覧会

     1855年のパリ万博は一応のところ成功に終わったが、やはり会場面での準備の遅れが最大の反省点となった。万博の総指揮をとったプリンス・ナポレオンは自身の報告書において、「今後、会場は、展示が分類法と密接な関連をもつように運営されなければならないだろう。」と語っている。展示方法に関して見やすさを追求するあまり、国別・地方別に展示したが同じグループの展示品を比較検討するのに観覧者は大変な労力を使わねばならなかった。そこで、そういった反省点を改善するべく、1867年の万博では会場作りに力が注がれた。

    1863年のナポレオン3世による勅令で1867年の4月1日から10月31日まで第2回パリ万国博覧会を開催することが発表されたが、この際規模を拡大するために、前回のパレ・ド・ランデュストリではなくシャン・ド・マルスに会場を設立することが決められた。会場の設計には、「プリンス・ナポレオンの報告書」に構想されたプランが実現化され、建築家アルディの手によってメイン会場となるパレ(宮殿)が建設されることとなった。パレ全体の規模は第1回ロンドン万博の水晶宮をはるかに凌ぐ14万6000平方メートルの広さとなった。パレ内の配置は、全体が楕円系の形を成し、放射線状に項目が分類された。また、今回はメイン会場のパレの他にも各国のお国柄を特徴付けた飲食が出来る施設を設け、展示品を鑑賞するだけでなく各国の食文化を実際に体験できるなど参加国の雰囲気が味わえるように工夫された。今回の画期的な会場の分類法の成果も伴って、産業はもちろんのこと農業、商業や生活に関わる衣食住まであらゆる分野が網羅され、文字通り“Universelle(万有)”の博覧会となった。しかし、前回のパリ万博では恒例のサロンを中止してまで万博における美術部門に精力を注いでいたのに対し、今回は例年通りこの年もサロンは開催され、実に低調で活気がないものとなった。出品作の多くがサロン出品作と重複し、必然的に作家の近作が展示される形となった。脚光を浴びた作品と言えば、ナポレオン3世のお気に入りであった作家アレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』が賞を受けた。また、前回万博に作品を応募しながら落選し、会場の外で個展を開いたクールベは今回も会場の外で個展を開き、133点の絵画と彫刻2点を展示した。しかし今回はサロンには当選しなかったものの万博においてはクールベの作品4点が展示された。クールベに加え、もう一人万博会場外で個展を開いたのがエドュアール・マネである。マネもクールベ同様サロンでは冷遇され、クールベが個展を開く5日前に万博会場外で自身の回顧展を開き、『オランピア』や『草上の昼食』など絵画50点以上を展示した。

     今回のパリ万博では、パレでの展示の他に水族館や植物園、各国パヴィリオンや国際劇場、モデルハウス、託児所に至るまで様々な施設を作って展示した。それはまさに、現代のテーマパークでも適わないほどの大型遊園地と言えるほどであった。まさに理想郷を実現化したようなこの万国博覧会は好評で会期を延長する声が強かったが、出展者の都合により3日間延長して幕を閉じた。

    ?1878年第3回パリ万国博覧会

     1870〜71年の普仏戦争の敗北によりナポレオン3世が退位し、代わって第3共和制の新体制になってからフランスで初めての万博。この戦争によりフランスは荒廃したが、そこから復興したパリを世界へ知らしめるべく開催された。主会場は第1回パリ万博同様セーヌ川左岸を使用し、「シャン・ド・マルス宮」が建設され、セーヌ右岸には「トロカデロ宮」が建てられた。美術部門が低迷した前回のパリ万博とは打って変わって、シャン・ド・マルス宮の中央には美術部門が占め、トロカデロ宮にも16世紀以来の肖像画や東洋美術品が展示されるなど、美術部門への尽力が見られた。しかし、この時すでに1874年に「第1回印象派展」が開かれ、モネやルノワールなど印象派の画家たちは序々に知られるようになっていたが、万博では排除され、未だ万博の美術部門がアカデミックな性格を持っていることが分かる。

      ?1889年第4回パリ万国博覧会

     この万博はフランス革命100周年を記念して開催され、この万博において特に有名なのがエッフェル塔の建設である。100周年記念の一環として、フランス人技師エッフェルが設計した高さ320メートルの鉄塔は、景観を大事にするパリ市民によって賛否両論が巻き起こった。エッフェル塔は万博終了後しばらくしてから取り壊される予定だったが、軍事用の無線電波を送信する目的で取り壊されることなく、現在までその姿をとどめ今やパリの観光名所となっている。このエッフェル塔が建てられたシャン・ド・マルスには「主展示館」と「美術宮」、「機械館」が建てられた。

      ?1900年第5回パリ万国博覧会

     19世紀最後の万博にして、敷地面積、パヴィリオンの規模、8万3000点もの出品作、5100万人の来場者と、過去最大級の万国博覧会となった。1855年の万博当時から見ても産業面でも発達し、交通機関や情報網も整備されて国内外からの来場者もおおいに増加した。また、美術界でも新しい装飾芸術の「アール・ヌーヴォー」が全盛期を迎えており、華々しい装飾が万博全体を覆った。現在でもパリに存在する美術宮「グラン・パレ」では、「フランス美術の100年展:1800〜1889年」と「フランス美術の10年展:1899〜1900」が開催され、100年展にはダヴィットやジェリコーといった名作のほかにクールベ、マネ、モネ、ルノワールなど、以前は万博から排除の対象となっていた画家たちの作品が並べられた。これにより、アカデミックな要素を持った万博は終わりを告げ、「装飾博覧会」としての役割を担っていくことになる。

    出典

    鹿島茂著『絶景、パリ万国博覧会【サン=シモン鉄の夢】』河出書房新社 1992年

    東京国立博物館 『世紀の祭典 万国博覧会の美術』展 2004年